三日月

三日月

今の季節、店からの帰り道は真っ暗。なんとなく見上げた夜空に月が、ということがよくあります。形や大きさ、光の具合など、日ごとに違う月は、見つけるたびにささやかな驚きがあり、私のお気に入りの時間です。

 

元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く…

 

とは雑誌「青鞜」の平塚らいちょうの言葉です。明治の時代、女性の不遇を月に例えて書かれた有名な一節、確か教科書で習ったような。

 

偉い方にたてつく気は毛頭ありませんが(笑)、華やかなものが苦手な私は、太陽より月が好きです。燦々と照りつける太陽の光より、煌々と照る月明かりに魅かれます。

 

人の体は月の満ち欠けと連動していると言われます。なかでも女性の体との関わりは深いとか。さらに心のありようが月に左右されるという話も。真偽はともかく、月を眺めていると神秘的なパワーを感じるのは確かです。月に魅かれるのは、そんな力のせいかもしれません。

 

なかでも私は三日月が好き。鋭利に尖った先で指を切りそうな三日月は、シルエットがいかにもアートっぽい。絵本では三日月が人の横顔になっていたり、メルヘンな雰囲気もいいですね。うさぎがお餅つきしている満月もいいけれど、やっぱり私は三日月が好き。

 

実のところ、三日月が好きな理由は別にあります。あれも出来ない、これも出来ない。ひとが持っていて、私が持っていないものが山ほど…。そんな欠落感をいっぱい抱えた私は、三日月に自分の姿を投影してしまうのです。欠けた部分が多ければ多いほど親近感が湧くのです。満ち足りた満月はなにやら落ち着かない。

 

先日のこと、見上げた夜空に私好みの三日月が。あぁ、これこれと愛でながら、ふと思いました。三日月はそういう形の月だと思って見ていたけれど、本当にえぐられているわけじゃないんだ。欠けているように見えるところも、ちゃんと月で、月はいつも変わらず、まん丸なんだ、って。

 

目からウロコ、とはこのこと。大発見した感動に、ひとり興奮してしまいました。相当な馬鹿でしょうか。確かに理科は小学校以来、大の苦手です(笑)。

 

思えば私が自分に欠けていると思っているところも、実は欠けているわけじゃないんじゃないか。苦手だったり、持ち合わせていなかったり、それはそうに違いないけれど、それは欠けているのとはまた違っていて、それも私。そういう私。だからこそ私…、なのかもしれない。

 

欠けた三日月と思っていた私、本当はまん丸お月様だったのかもしれない。


「しののめ寺町」を始めて、もうすぐ三年になります。この間に出会った多くの方々に四方八方から手を差し伸べていただきました。それはまさに光でした。私が欠けていると思っていたところにも、あまねく光を当てていただき、そうして気づいたことです。


私はきっと、自ら光を放つ太陽タイプではなく、光を当てられて輝く月タイプなのでしょう。平塚らいちょうさんに知れたら、どやされそうですが(笑)。

 

今日は早、一月最後の日。年明けから反省ばかりの一ヶ月でしたが、そんな自分も責め過ぎずにおこうかな。今年はそんな自分であれたらいいなと思っています。