可能性

可能性

私、心に思ったことが視覚的に見えるという変な癖(?)があります。心が動いた時などに、よく起こります。そのものズバリというよりは、暗示的なイメージで現れることが多いでしょうか。うまく説明できませんが…。

 

このところ、しきりにシャボン玉が見えます。大きなシャボン玉がいくつも、目の前でふわりふわり。光を浴びて七色に輝くシャボン玉、中には色とりどりの小さな紙切れが。七夕飾りの短冊みたいに、なにやら願い事が書かれているもよう。指先でつつくとパチンと割れて、短冊がはらはらと空に舞います。入れ替わるように、またひとつ新しいシャボン玉が。

 

可能性をはらんだシャボン玉。

 

可能性は私のまわりにいくらでもあるのだと、それをものにするもしないもすべては私次第なのだと、この光景は教えてくれます。

 

先だって、お陰様で開店3周年を迎えることができました。とはいえ40年近く続いている店からの暖簾分けという状況、新規の店とは少し事情が違います。多少のアレンジは加えながらも、基本、もともとあったものを持ってきた、というのが正直なところです。

 

これはこういうもの。ここはこうあるべき。そう信じて疑わずに準備し、やってきました。それがお客様が望まれていることと思って…。

 

三年が経ち、そんな思いに変化が表れています。こういうもの、こうあるべき、と思っているものは本当にそうなんだろうか。すでにあるものを改良したり、ないものを一から作り出したり、いくらも工夫の余地がありそうな。お客様はむしろ、そちらを望まれているんじゃないか。


途端、目に入るもの、目に入るものに可能性を感じるようになりました。次々に新しい発想が生まれ、その発想がまた新しい発想を呼んでくる。それは店のことに留まらず、自分自身のことにおいても同じです。気づけば、私の目の前はシャボン玉だらけ。ずっと目の前にあったのに、私が気づかなかっただけかもしれません。 

 

これまで、精一杯がんばっているようで、がんばり切れていないもどかしさを感じていました。守るべきもの、変えていいもの。そこを見誤らなければ、もっと自由でいいんじゃないか。そう気づくと、心まで自由になれた気がしています。これからが本当のがんばりどころです。

 

自分の心は自分が一番わかっているようで、わかっていない。そこのところをダイレクトに見せてくれる、この変な癖。直感タイプの私らしい、いい癖だなぁと思っています。

 

目の前のシャボン玉、さあ、なにから割ろうか。たくさんありすぎて、どれも魅力的過ぎて、きょろきょろ視点が定まらない状況です。一日24時間、体は一つ、手当たり次第とはいきません。まずは目の前の一番大きなシャボン玉から。

 

大それたことはできないけれど、手の届く可能性には果敢にチャレンジしていきたい。伝統を守りながら、でも新しい風も吹きこみながら「しののめ寺町」は「しののめ寺町」らしい店になっていきたい。それこそが店を開いた意味だったのだと、思いを新たにするこのごろです。

 

写真は3周年記念に友人のカメラマン篠崎一恵さんに作ってもらったオリジナルポストカードです。私からお願いしたテーマは「希望」でした。まさに私の心象風景。これからまた一歩一歩です。皆様、どうぞ気長に見守ってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

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私が苦手だったもの 兄

私が苦手だったもの 兄

私が苦手だったものシリーズ(ブログ私が苦手だったもの春 私が苦手だったもの京都 私が苦手だったもの花)今回は兄です。またまたひんしゅくを買いそうな(笑)。

 

私は三歳年上の兄と二人きょうだいです。この兄というのが子供の頃から勉強がよく出来て、スポーツでもなんでも難なくこなす優秀なひとでした。学校に行けば、どこからともなく兄の評判が聞こえてくる。親戚が集まれば兄は皆から褒められヒーローのよう。

 

かたや妹の私はというと、なにをやってもドンくさい。兄にひきかえ影の薄い存在でした。母にとって兄は自慢の息子。私はどうもパッとしない娘だったように思います。どうしたって兄には敵わないという思いが、私にはずっとありました。兄に甘えるなんてことは一度も思ったことがなく、邪魔をしちゃあいけないとさえ幼心に気を遣っていたように思います。

 

日本では身内のことは謙遜することになっているようですが、兄は私にとって、身内であって身内でないような。自慢も謙遜もできない、近くて遠い存在でした。

 

やがて兄は大学進学と共に家を出て下宿生活を始め、就職後は国内はもとより、海外も転々とする生活に。お互い結婚もし、文字通り遠い存在になってしまいました。

 

そんな兄との距離が少し近くなったのは、10年ほど前でしょうか。実家近くに暮らす私が、遠方で暮らす兄に、老いていく両親の近況を伝えたり、相談したりといった必要に迫られ、パソコンでメールをやり取りするようになった時です。

 

本題のあと、話題はときに幼い日の思い出話に及ぶことも。互いの記憶を突き合わせ、そうやった、そうやったと納得することもあれば、へぇ、そうやったん? と意外に思うこともあったり。他人行儀な言葉を使う距離感でしたが、暗くなりがちな時期のささやかな楽しみだったことを覚えています。

 

そんなやり取りも一段落。実家は今はもうなく、私も店を始め忙しくなり、また遠い存在になってしまいました。兄は今は名古屋に単身赴任中。実際は京都からは新幹線を使えばあっという間、会おうと思えばいつでも会える近さですが…。

 

開店を機に初めて商売に携わった私、大変ではありましたが、怖いもの知らずの強みもあったように思います。いろいろなことがわかってくるにつれ、怖さを感じるようになってきました。3周年の節目を前に、この漠とした不安を誰かに聞いてほしい。聞いてもらうだけでいいから…。そう思った時、浮かんだのは兄の顔でした。年度末で忙しいかと案じながらも連絡をしてみました。

 

定休日の3月11日、仕事の段取りをつけてくれた兄と、夕刻、名古屋駅で待ち合わせをすることに。方向音痴の妹が迷子にならないよう、宿泊予定のホテルからも、駅からもわかりやすいビルを食事場所に選んでくれました。

 

食事の席に着き「どうした?」と聞かれた途端、急にこみあげるものが。張りつめていたものが緩んだのでしょうか。店のこと、家族のこと、これまでのこと、これからのこと、せきを切ったように話しました。「冷めないうちに食べなさいよ」と食事を勧める兄の言うことも聞かずに(笑)。

 

聡明なうえに、長年企業の最前線で働いてきた兄。理路整然と明瞭、的確に話してくれる内容は、私の混沌を一気に整理してくれました。最後に会議の議長のように結論を取りまとめ、翌朝の朝食のアドバイスをし、ホテルの前の信号まで私を送り、足早に駅へと消えていきました。

 

やっぱり兄には敵わない。

 

信号が青に変わるのを待ちながら、その見事さに笑ってしまいそうなくらい、私の心は軽くなっていました。そして横断歩道を渡り終えたところで、兄にお土産を渡すのを忘れていることに気づきました。長い信号待ちのあとのことです。雑踏の中でとうてい追いつける自信もなく、そうしてまで渡すほどのお土産でもなし。そのまま持ち帰ることに決めました。

 

やっぱりドンくさい妹やぁ。

 

兄の前ではいくつになっても妹だったなぁと思います。ちょっと違っていたのは、一度も甘えたことのない兄に、初めて甘えられたこと。やっと気づきました。兄に敵う必要なんてどこにもなかったんだと。兄に妹が甘えるのは、ちっとも悪いことではないんだと。

 

3年前の開店の朝、兄から花と共にこんなメールが届きました。「寺町という最高の場所を与えられたということは、神様が味方してくださっているんだよ」。その言葉はいつも私の心の支えでした。

 

これから、ますますがんばっていかないといけないけれど、しんどくなったらまた兄に甘えてしまおうかなぁ。ただし手厳しい兄は、必要以上の甘えは許してくれないはず。そのへんを見極めながら、うまく甘えていけたらいいなぁ。そんなことを思いながら、やっと妹らしくなれた自分を感じています。

 

名古屋に出かけた3月11日は、花を買うと決めている連休の初日、奇しくも東北の震災からちょうど四年目でした。写真はその日選んだ花です。ピンポンマムという名の可愛らしい菊。白い色、まん丸の形。哀悼のお思いと共に、幼い日の無垢な思いが蘇ったのではと思います。

 

お陰様で3月16日、3周年を迎えることができました。ひとえに皆様のご愛顧のお陰です。こんな私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

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